2009年06月18日

Test


【映画レビューの最新記事】
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2008年07月01日

猫である。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。揺れるハート
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。ぴかぴか(新しい)
何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。
この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。
しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。
ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。
掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始であろう。
この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。
第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。
その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。
のみならず顔の真中があまりに突起している。
そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。
どうも咽せぽくて実に弱った。
これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。
この書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。
書生が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗\に眼が廻る。
胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。
それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると書生はいない。たくさんおった兄弟が一疋も見えぬ。
肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までの所とは違って無暗に明るい。
眼を明いていられぬくらいだ。はてな何でも容子がおかしいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。



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2008年06月27日

まかろん

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マカロンのあの食感はたまらない

マカロンといえば

やはりピエールエルメが一番

だけど高い。。。。
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2008年06月25日

羅生門

 ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々|丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。
旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。
洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。
盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。
ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。
――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。
ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。
下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。
しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。
ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。
所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。
だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。
その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻下りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。
そこで、下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
 雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。
夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
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2008年06月20日

羅生門

 ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々|丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。
旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。
洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。
盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。
ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたようにはっきり見えた。鴉は、勿論、門の上にある死人の肉を、啄みに来るのである。
――もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。
ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞が、点々と白くこびりついているのが見える。
下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
 作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。
しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。
ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。
所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。
だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。
その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻下りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。
そこで、下人は、何をおいても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
 雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。
夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
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2007年10月20日

Waking Life

wakinglife.jpg映画『Waking Life』が日本で公開されたのは2002年。
公開前から一部のデザイン系雑誌などで取り上げられていたけれど、一般的な知名度は低いのかもしれない。公開当初、恵比寿ガーデンシネマで受けた衝撃が忘れられず、DVD化されるとすぐに購入した。
『Waking Life』は全編が実写にデジタル・ペイントを施した“アニメーション”。独特の質感は、少々クセになる。

ちょっと変わったアニメーションは、総勢30名以上のアニメーターによって制作された。彼らはMacintoshの前で9ヶ月間ひたすら作画を続け(1分間のシーンにおよそ250時間かけて)、100分に及ぶ“デスクトップムービー”を完成させた。

デジタルビデオの映像をベースに描き起こされたイメージは、いびつで不安定。カメラの揺れもそのまま描く為、画面は常に多方向に揺らぎ、登場人物の顔や背景も刻々と変化し続ける。アニメーター達の画風も統一されていないために、あろうことか“同一人物が同一人物に見えない”という現象が起こる。

Photoshopでいうところの「レイヤー」で大雑把に見せたかと思えば、次のシーンで緻密に描写された背景が動き出す。方法に統一感がないおかげで、次々と新しいスタイルが現れて、スクリーンから目が離せなくなる。

主人公の青年は街を彷徨い、通りすがりの人々が彼に向かって自己流の哲学を語っていく。まるですれ違った他人に突然話しかけられるみたいに唐突に。そして人々は一通り話が終わると満足したように画面を去っていく。
多くの映画と違って、この作品にストーリーはない。観る者も青年と同じように、至極個人的な哲学に耳を貸すだけなのだ。

しかし、この映画を字幕つきで観るならば、おびただしい量の文字に圧倒されるだろう。作品はほとんど会話のみで構成されているので、途切れることのない言語(字幕)の洪水を浴びることになる。人々は実存主義やビートニク、著名な文学作品や芸術家について語り、難解な台詞が次々に放出される。

その一方で、会話に登場するモチーフがアニメで登場したり、人間の感情をわかりやすいペイントで表現するというアニメーションならではの「お楽しみ」もある。それは実写では不可能な演出で、アニメーションの写実的な側面とマンガ的な側面を融合させたなんとも洒落のきいたシーンになっている。

ドキュメンタリー作品に着彩したラフでサイケデリックな手法や、特定の場所や時間を持たない設定で、仮想と現実の区別は曖昧になった。その浮遊感なくしてきっとこの作品は成立しないだろうし、それが『Waking Life』という映画の曲者的な魅力なのだ。

表現は常にパーフェクトである必要はない。パーフェクトでないからこそ受ける衝撃だってある。世の中のパーフェクトがいかに味気ないものか、もう一度考えてみる必要があるのかもしれない。

作品公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/wakinglife/
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